熊谷稲荷

熊谷稲荷の写真

本法寺熊谷稲荷

 

この稲荷は、江戸中期に熊谷安左衛門が勧請した稲荷で、数ある稲荷とちがって、白狐を祀った稲荷で、江戸浅草の熊谷安左衛門の墓所のある本法寺と、青森弘前の津軽藩公が祀った二ヶ所だけの、極めて珍しい稲荷です。
もう一ヶ所の津軽の熊谷稲荷は、藩公が江戸へ参勤交代のさい、白狐があらわれて、不思議な霊験があったことで知られています。(津軽史参照)

狐(きつね)にもさまざまな稲荷の神として種類があり、そのなかで人間に福徳を分かつ福狐(ふっこ)、つまり白狐(ぴやっこ)だけが、稲荷明神の御脊属(けんぞく)[侍者、従者、随伴者、取り巻きの者]に選ばれる資格があるといわれています。
しかも白狐は一種の霊体であって、通俗の人間には姿を見せず、稲荷信仰のあつい人に対してだけ、その正体を現わすといわれています。江戸時代から巷間に熊谷稲荷の信者が多く、門前は人で賑わっており、熊谷稲荷がいかに栄えていたかが覗えます。
その栄えていたひとつの例として、歌舞伎世話狂言劇作者として有名な河竹黙阿弥氏の「合邦辻」を書いた作があり、人力車に乗って浅草の熊谷稲荷へ参詣に行くくだりがあります。また久保田万太郎氏の書いた「猫の目」という作のなかで、熊谷稲荷や、はなし塚、お伽九柳一の碑にも触れてます。芸界や花柳界に熊谷稲荷の信仰が篤(あつ)かったことにも触れています。明治、大正、昭和にかけて、いかに熊谷稲荷大明神が民間はもとより、芸界や花柳界の巷に信仰が篤かったかがうかがえます。

本法寺熊谷稲荷

 

この稲荷は、江戸中期に熊谷安左衛門が勧請した稲荷で、数ある稲荷とちがって、白狐を祀った稲荷で、江戸浅草の熊谷安左衛門の墓所のある本法寺と、青森弘前の津軽藩公が祀った二ヶ所だけの、極めて珍しい稲荷です。
もう一ヶ所の津軽の熊谷稲荷は、藩公が江戸へ参勤交代のさい、白狐があらわれて、不思議な霊験があったことで知られています。(津軽史参照)

狐(きつね)にもさまざまな稲荷の神として種類があり、そのなかで人間に福徳を分かつ福狐(ふっこ)、つまり白狐(ぴやっこ)だけが、稲荷明神の御脊属(けんぞく)[侍者、従者、随伴者、取り巻きの者]に選ばれる資格があるといわれています。
しかも白狐は一種の霊体であって、通俗の人間には姿を見せず、稲荷信仰のあつい人に対してだけ、その正体を現わすといわれています。江戸時代から巷間に熊谷稲荷の信者が多く、門前は人で賑わっており、熊谷稲荷がいかに栄えていたかが覗えます。
その栄えていたひとつの例として、歌舞伎世話狂言劇作者として有名な河竹黙阿弥氏の「合邦辻」を書いた作があり、人力車に乗って浅草の熊谷稲荷へ参詣に行くくだりがあります。また久保田万太郎氏の書いた「猫の目」という作のなかで、熊谷稲荷や、はなし塚、お伽九柳一の碑にも触れてます。芸界や花柳界に熊谷稲荷の信仰が篤(あつ)かったことにも触れています。明治、大正、昭和にかけて、いかに熊谷稲荷大明神が民間はもとより、芸界や花柳界の巷に信仰が篤かったかがうかがえます。

 

ご利益のあった話


 「火難除け」


熊谷稲荷の信者で、世田谷区三軒茶屋に住んでいました。自宅から二三軒先の家から火事があり、夜更けていたので、思ったよりも火の手が速く、またたく間に私の隣家も火に包まれました。このとき私の家も、もはやこれまでと観念しておりましたが、私にしてみれば、多額のお金をかけて新築したばかりの家でしたので、その心境は計り知れない先ざきの不安の想いがかけ巡りましたが、消防士の必死の防火作業で、危うく類焼を免れることができました。しかしその翌日、隣家の残り火からまた火の手があがり、これはご近所の人々のご協力で消しとめることができました。
日頃信仰している熊谷稲荷の火難除けのお守札の御加護のお蔭だと、前にもまして篤く信仰しています。
また、他の信者の方のお毛の台所で夜、天婦羅を揚げていました時に、ちょっとほかに急用を思い出し台所から離れた隙に、油に火がはいり火事になりかけたところを、夜警の人が通りかかり窓ガラス戸に映る火に気づき、急避家人に知らせ協力して火を消してくださり、火事に至らず無事だったことがありました。これは日頃信仰している熊谷稲荷のお守札のお蔭だといって、熊谷堂にきて話されたことがございます。

 

「盗難除け」


近所に買物に行ったさい何軒かのお店に立ち寄って、帰りがけにふと買物篭のなかの財布が無くなっているのに気付き、あわてて立ち寄った店に聴きましたが心当たりもなく、おそらく途中で財布を落としたのだと気付き、早速交番に届け出ましたが翌日警察から連絡があり、無事財布が戻りましたのは、日頃信心している熊谷稲荷さまの盗難除けのお守札の御加護のお蔭だとお礼詣りにご挨拶に来られたことがあります。

ある看護婦養成学校の先生ですが、看護婦定期試験の答案の入った鞄を自動車のなかに置き、鍵をかけてあるので安心して駐車場を離れて用事を済ませて戻ってみると、運転席のガラスが打ち破られ、中に置いてあった鞄が盗まれていました。先生にしてみれば、鞄の中には生徒の定期試験の答案が入っているので一瞬色を失いましたが、とにかく警察に届け出ましたところ、その日の夕方警察から連絡があり、鞄が出たので直ぐ来てくださいとのことでした。
警察での話によると、通りがかりの人が道路の脇に鞄が落ちているのに気付き、拾いあげてみると鞄の口が開いていて、中に生徒の答案がいっぱい詰まっているので、これは落とした人の大事なものだと思い、警察に届け出てくれたのだそうです。
盗んだ泥棒にすれば、あてにしていた金目のものがなっかたので、道路の隅に捨てていったに違いありません。でも拾ってくれた方が落とした人には大事な品物だと感じたからこそ、警察に届け出て呉れたのだと思います。良心のあるいい方に拾っていただいて本当に助かりました。

熊谷稲荷は江戸志の史実にも「熊谷稲荷の参詣頗る多し」と書かれているように、江戸時代から今日まで大変御利益のある稲荷として知られていることは申すまでもありません。


熊谷稲荷の大祭日

 

熊谷稲荷の大祭日は、一年の期間をとおして、次の四季の月に祭祁が行われていますが、日頃信仰している方々にとって、この大祭の日に参詣すると、さらに所願の御利益があると、江戸時代から伝えられています。
 (1)初午の日 (毎年2月の最初の午の日)
 (2)萬巻會 (毎年5月22日)
熊谷稲荷に一年間にわったて葛巻のお経をあげた最後の日として、毎年大祭を行っています。
 (3)脊属大祭 (毎年11月28日)
狐を祀った稲荷にも、さまざまな種類があり、そのなかで人間に福徳を分かつ福狐つまり白狐だけが、稲荷明神の御脊属(ごげんぞく)にえらばれる資格があるといわれています。熊谷稲荷は白狐を記った稲荷であることから、他にあまり例をみない脊属大祭を行っていることで知られています。


熊谷稲荷堂「歸一殿」堂額の完成について

 

熊谷稲荷堂は、江戸時代から別名「歸一殿」と呼ばれた由緒ある御堂です。この歸一とは、法華経の一乗つまり悟りをひらく唯一の教えという大乗仏教の基本をさし、法華経の一乗に帰することを説いた仏教上の大切な言葉です。
熊谷堂には、その昔及川貫能上人の筆による「歸一殿」という立派な堂額が掲げられており、堂内の荘厳なかなめとして、参詣された方々に親しまれていましたが、関東大震災のさい下町一帯はすべて灰矯に帰し、当本法寺のすべての堂宇とともに焼失し、はや数十年の歳月が経ちましたが、故西川景文上人により小西法縁(本法寺もこの小西法縁の寺であり、全国に三百数十ヶ寺がある。)の御長老である、日蓮宗随一の書家の持田雲道上人により、昭和51年5月22日の熊谷普賢菩薩の葛巻會大祭の日に開眼法会が営まれました。熊谷堂を参詣する数知れない方々の礼拝に、爽やかに輝いています。

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