吉見稲荷

吉見稲荷の写真モノクロ

吉見稲荷について

 

承応2年 徳川幕府の茶碗用達町人 高原平兵衛といえる町人に賜与された、江戸浅草にある土地で、通称拝領町屋敷と呼ばれていたところです。
高原平兵衛がここに住んでいた頃、その屋敷神として、吉見稲荷が祀られていました。
八丁堀にあった本法寺が、明暦2年の振袖火事と云われた江戸の大火で焼失し、幕府は江戸の町の再興にあたって、焼失した寺は、浅草の拝領町承応2年 徳川幕府の茶碗用達町人 高原平兵衛といえる町人に賜与された、江戸浅草にある土地で、通称拝領町屋敷と呼ばれていたところです。
高原平兵衛がここに住んでいた頃、その屋敷神として、吉見稲荷が祀られていました。
八丁堀にあった本法寺が、明暦2年の振袖火事と云われた江戸の大火で焼失し、幕府は江戸の町の再興にあたって、焼失した寺は、浅草の拝領町屋敷の所を浅草寺町として集結し、江戸の町の東北端にあたるところから、軍事上の城塞として堅めたといわれています。高原拝領町屋敷のあったところは、俗に八軒寺町と呼ばれた程、お寺が隣りあっていました。
本法寺が再建した一千余坪の敷地の境内のなかに、高原平兵衛が勧請した吉見稲荷がありました。
このように本法寺の境内に、吉見稲荷があったこともあって、本法寺が吉見稲荷の祭祀(さいし)を継承して引継ぐことになりました。この吉見稲荷の堂宇のなかに金比羅大権現が合祀されており、その年代については史実もないので、合祀の時代は明らかではありません。
この吉見稲荷は、当寺に浅草寺から熊谷大明神を勧請する前からあった稲荷で、いまから600年前の高原平兵衛の拝領町屋敷のあった頃から現存していたことがわかっています。屋敷神であった吉見稲荷が世に知れわたるようになったのは、いうまでもなく江戸時代から評判の高い熊谷稲荷が当寺にあり同じ境内にあったことから、吉見稲荷にも参拝し信仰する人が多くなったと思われます。

本法寺 吉見稲荷には、どんな御利益があったか

 

大正時代に深川に住んでいた石川さんの御隠居さんが、吉見稲荷を篤く信仰していましたが、この石川さん御一家が、関東大震災の時、いちめんの火に追われて、深川木場の材木置場の堀に浮かんでいた材木の上に逃げたのですが、火の手や煙りがひどく、息も出来ないほど苦しく、覚悟をきめて堀の水のなかに沈もうとしたとき、誰か水をかけて呉れた人がいる。すると俄(にわ)かに煙りが遠のいて息が楽になり、二度三度とそのようなことを繰り返すうちに、夜が明けたそうです。
その時、御隠居さんの目には、ありありと白い鬚(ひげ)の老人の姿が見えたそうです。この老人こそ、吉見様だと断言しており、石川さんの御隠居さんは、それ以来ますます信心が篤くなりました。

その後、昭和のはじめ、東京市の大規模な区画整理が実施され、吉見稲荷のあった場所が、東京市の公共用撒水車を配置する場所になりました。本法寺としては、公共用のものですから、あきらめていたものの不便この上もありませんでした。
するとどうも様子がおかしくなってきました。毎朝早く、勇ましい撒水自動車やポンプの音はするのですが、一、二週間もするとバッタリ音もしなりました。様子をきくと、市は井戸を二十五間も掘り4トン積みの撒水自動車にもたえるように設計していたのですが、さて始動をかけると、鉄管からは水のかわりに煙が出てくる。何度とりかえても、モーターが焼けてしまうのだそうです。
おそらく吉見稲荷のあった場所ですから、何かさわりがあったのではないか。そんなこともあって、この撒水用地も使用せず、そのまま放置されたままになっていたのです。<br>
本法寺も吉見稲荷を元の場所に堂宇を建てたいと思い、公共用の土地でもあり当時もっとも有力とされていた、小島亀蔵先生のお力で、払下げ本法寺にこの用地を買い戻すことができました。

それから15年位たち、第二次世界大戦で東京が3月10日の大空襲のときに、また不思議なことがあったのです。
大空襲のあった昭和20年3月10日の夜のことです。この夜は下町の住人にとって、悪夢の一夜でありました。私は庫裡の三階の屋上あたりで火の手を見ていましたが、当寺もやがて火焔(かえん)に包まれることが必至と思ったので、近所の方が地下室に30人位避難していたので、早く避難するよう懇請しました。日頃親しくしていた那須のおばさんは、不自由な身体でしたから、ほんとうにうらめしげに追い出す私を見上げましたが、私もこれがこの御一家とのお別れになろうとは、夢にも思いませんでした。
全員退避を命じて、路地から表に脱した私は、老墓守の木我吾作さんだけそこにみえなかったので声をかけませんでした。それだけに吾作さんのことが一番気にかかりました。春恵(日展上人の夫人)も返事があったし、晴基(日展上人の甥)も私の後にいたから安心。あとの家族は疎開させてあるからこれも安心、吾作さんだけが心配でありました。

東京大空襲

どうやら翌日生命を全うして無残な焼け跡に戻って来てみると、昼頃境内に入ることが出来ました。
おいおい人の消息がわかってきました。本法寺の地下室から避難した三十人程の人々の大部分が行方不明になってしまいましたが、吾作さんが生きていることがわかりました。話をきくと、吾作さんは本法寺の境内の吉見稲荷のところにいたそうです。そのなかで命を全うしたと思う方が不思議に思われてなりません。
火焔が町を総なめにしたときです。あの夜、最初の熱風の襲来は、この吉見堂の軒先で防ぐことが出来たとのことです。一面白熱光の熱風の中で吉見堂の前だけが黒々と見えていたので、その中にとびこんだとのことです。そこだけが冷えていたらしい。
一寸思うと変ですが、吉見堂の屋根の勾配が風の流れを素直にうけて、流線形に風を吹き流したのでしょう。そうでもなく軒下で渦巻くことでもあれば、とても人など生きていられるものでもありません。

吾作さんはもう一つ妙なことを申します。この大事のちょっと前に、私が吾作さんに吉見様の五段の御守を与えて、これを保持せよと云ったというのです。私には全くそんな記憶はありません。とにかく生死の関頭に、その様な御守を身につけていたことは、或いは神意とも申すべきでありましょうか。

本法寺の吉見稲荷写真

故西川日露上人も、遠い浄土の世界で当寺の檀信徒のご厚志を合掌して喜んでいることと信じて疑わないと思われます。
〔日晟上人が本法寺だより記述 〕