江川坦庵と菩提所

江川坦庵(本法寺境内)の墓

江川坦庵(太郎左衛門)は幕末に海防の先駆者として、韮山に反射炉を設置し、大砲を鋳造した砲術家として、在世の時代から日本全国に名を轟かせた人物としてよく知られています。

江川太郎左衛門は、韮山代官として駿河、伊豆、甲州、武州、相模にわたる天領を支配した豪族でしたが、江戸に出府の機会が多く、本所南割下水、津軽藩公の屋敷の前に役宅と屋敷がありました。
 江川太郎左衛門の菩提所は、韮山の本立寺ですが、小西法縁の縁あ(ゆかり)もあって江戸出府のさいに生じた法要その他の儀式、江戸詰めの臣下の葬儀は、浅草本法寺がすべてを執り仕切っていました。
そのようなことから、江川家の墓所が本法寺にあることは当然であり、五塔の下には、江川家の親族や臣下の霊が納められています。代官として有能な江川太郎左衛門は、また繭学者、軍学者、外交官、教育者、芸術家でもあり、剣客としても神道無念流の免許皆伝の腕前をもった一流の人でした。
このように多芸、多能な先覚者でもあることもあってその交際も広く、ちょっと数えても渡選華山、高島秋帆、谷文晃、土田士豊、桂小五郎、高野長英、佐久間象山、間宮林蔵、ジョン満次郎その他多くの優れた人々の名をあげることができます。

本法寺 江川坦庵と菩提所

●天保の改革から品川台場、反射炉を着手するまで、太平に眠る幕閣に警鐘を鳴らした幕末の国防の先覚者でした。晩年はペリーの来航により、砲術、海防学者としての人材から、幕府に厚く登用され2年余のすえ病に倒れ、安政2年1月16日江戸役宅で急逝したことは、かえすがえすも惜しまれてなりません。

反射炉(本法寺写真)

●天保の改革から品川台場、反射炉を着手するまで、太平に眠る幕閣に警鐘を鳴らした幕末の国防の先覚者でした。晩年はペリーの来航により、砲術、海防学者としての人材から、幕府に厚く登用され2年余のすえ病に倒れ、安政2年1月16日江戸役宅で急逝したことは、かえすがえすも惜しまれてなりません。

 

●江戸での急逝のため、通夜には菩提所である本法寺の住職が葬儀の法要を行ったことは申すまでもありません。このように本法寺にとって、江川家との関係は深く、現在でも江川家の墓地が当寺にあることはよく知られています。
安政2年 江川家所蔵の古文書「参府諸用留」のなかに、江戸役宅で江川坦庵が死去したことから、菩提所である本法寺の住職が役宅に参上し読経したことが記載されている個所があり、それに続いて当時有名な蘭学医者の名が書かれていますが、坦庵の繭学者としての知己の広さがわかる気がします。
1カ月の坦庵の看病にあたった医者は、大槻俊斉を中心にして次のとおりです。これは当時の蘭学医者を総動員した16名があがっています。
大槻俊斉、伊東玄朴、竹内玄洞、三宅艮斉、林 洞、戸塚静海、辻元穂庵、織田研斉、肥田春安、矢田部郷雲、榊原玄瑞、榊原玄順、青木春台、原 長川、島 立甫、伊東貫斉(玄朴の養子)