山谷なかま塚

山谷なかま塚(本法寺境内)写真

浅草の山谷といえば、日雇労働者や人生から落ちこぼれ人達が住む町として、よく知られています。
この山谷のドヤ街(木賃宿が建ち並ぶ町のこと)に住む人達は、故郷もなく、親族にも見放された、天涯孤独の人が多いことでも知れわたっています。ここに住む人達は、殆どの人がその日暮らしの日雇労働者達で、雨が降れば降ったで、働く場所もなく、また冬の年末年始の頃には、仕事もなく、食べるものにも事欠き、なんの福祉の生活補償もなく、ドヤ(木賃宿)に泊まるお金にさえ困る始末です。

●毎年冬の寒さが厳しい時季になると、凍死や餓死や冷え込みのきびしさで、病に倒れる人や行き倒れの人が三、四十人もでる。年間をとおすとその死者の数は二百人以上を超えるといわれています。

国や都の福祉施設も充分でなく、したがって休業補償の対策もなく、病気や行倒れで、死んでゆく人が後を絶たない実情にあります。しかし、こうした日雇労働者達に、なんとか人間らしい生活を築こうと努力しているの支援者である、自立合同労働組合の梶大介氏達の人々がいました。この人とある機会に知りあった本法寺先々代の住職であった故西川景文師は、これら山谷の日雇労働者と接しているうちに、なかには厭世的な気持を酒に酔ってまぎらわす人もいますが、すべての人達は、なんの偏見もない善人達であることを知りました。

●故西川景文師は、わざわざ山谷まで出向き、こうした人達にわかりやすい人生の法話を説きました。また或る時は、浅草の街頭に作ち慈善カンパを実施したり、食料や古着などを世の人々に呼びかけて、貧しい人々のために援助の手をさしのべて来ました。こうして自立合同労働組合の先導者である梶大介委員長をはじめとして、山谷の日雇労働者達の間でも、人間としての生甲斐を求める人達が、この集いに参加ました。

●昭和48年、故西川景文帥の死去に伴い先代の住職である故西川鑒海(かんかい)帥が、その跡を継ぎ毎年山谷におもむき、わかり易い人生の法話をしたり、人間としての正常な道を説いてきたことは、仏教の大慈大悲の悲願が故西川雲海帥の心のなかにあったからです。
このように梶委員長や故西川雲海帥の説法が実を結んで、昭和50年の冬、本法寺の境内に山谷なかま塚が建立され、年が明けた昭和51年1月23日、山谷無縁物故者追悼会を営むはこびとなりました。

●主催者の自立合同労働組合の梶委員長をはじめとして約150名の山谷の労働者が堂内狭しと着席し、御霊前には仲間の日雇労働者の皆さんの心づくしの菊の花や卒塔婆が供えられ、故西川鑒海帥をはじめ、僧侶の読経がはじまると供養に集まった人達がすすり泣きながら、無縁になった仲間の冥福を祈っている姿があちらこちらに見え、故西かんかい帥のわかり易い法話に耳を傾けている姿が深く印象に残っています。
法話が終ると故西川零海帥に山谷の労働者の人々がいっせいに〃有難うございました〃という声が静かな堂内に響きわたり、ジャンパーを着た男、タオルを首に巻いて参列している者、本堂を汚さないようにと靴下を脱いでいる人も、こうした供養の席に座った経験のない人が殆どらしく、静まりかえったうちにも荘厳な堂内の雰囲気に、感謝に咽(むせ)んでいる人々の姿がありありと漂っていたのを忘れることができません。
境内の山谷なかま塚には、供養の花が華やかに色を添え、塚のうしろには卒塔婆が建ち並び、集まった山谷の仲間達が、次々と山谷なかま塚に手を合わせている姿は、深い感銘を与えました。
俺たちもこの後、死んでもこの塚に守られていることを知って、寒波の冷えこむきびしい日でしたが、集まった人々にとって心の裡に花が咲いた楽しい首途の日であったろうと思われてなりません。

国や都の福祉施設も充分でなく、したがって休業補償の対策もなく、病気や行倒れで、死んでゆく人が後を絶たない実情にあります。しかし、こうした日雇労働者達に、なんとか人間らしい生活を築こうと努力しているの支援者である、自立合同労働組合の梶大介氏達の人々がいました。この人とある機会に知りあった本法寺先々代の住職であった故西川景文師は、これら山谷の日雇労働者と接しているうちに、なかには厭世的な気持を酒に酔ってまぎらわす人もいますが、すべての人達は、なんの偏見もない善人達であることを知りました。

●故西川景文師は、わざわざ山谷まで出向き、こうした人達にわかりやすい人生の法話を説きました。また或る時は、浅草の街頭に作ち慈善カンパを実施したり、食料や古着などを世の人々に呼びかけて、貧しい人々のために援助の手をさしのべて来ました。こうして自立合同労働組合の先導者である梶大介委員長をはじめとして、山谷の日雇労働者達の間でも、人間としての生甲斐を求める人達が、この集いに参加ました。

●昭和48年、故西川景文帥の死去に伴い先代の住職である故西川鑒海(かんかい)帥が、その跡を継ぎ毎年山谷におもむき、わかり易い人生の法話をしたり、人間としての正常な道を説いてきたことは、仏教の大慈大悲の悲願が故西川雲海帥の心のなかにあったからです。
このように梶委員長や故西川雲海帥の説法が実を結んで、昭和50年の冬、本法寺の境内に山谷なかま塚が建立され、年が明けた昭和51年1月23日、山谷無縁物故者追悼会を営むはこびとなりました。

●主催者の自立合同労働組合の梶委員長をはじめとして約150名の山谷の労働者が堂内狭しと着席し、御霊前には仲間の日雇労働者の皆さんの心づくしの菊の花や卒塔婆が供えられ、故西川鑒海帥をはじめ、僧侶の読経がはじまると供養に集まった人達がすすり泣きながら、無縁になった仲間の冥福を祈っている姿があちらこちらに見え、故西かんかい帥のわかり易い法話に耳を傾けている姿が深く印象に残っています。
法話が終ると故西川零海帥に山谷の労働者の人々がいっせいに〃有難うございました〃という声が静かな堂内に響きわたり、ジャンパーを着た男、タオルを首に巻いて参列している者、本堂を汚さないようにと靴下を脱いでいる人も、こうした供養の席に座った経験のない人が殆どらしく、静まりかえったうちにも荘厳な堂内の雰囲気に、感謝に咽(むせ)んでいる人々の姿がありありと漂っていたのを忘れることができません。
境内の山谷なかま塚には、供養の花が華やかに色を添え、塚のうしろには卒塔婆が建ち並び、集まった山谷の仲間達が、次々と山谷なかま塚に手を合わせている姿は、深い感銘を与えました。
俺たちもこの後、死んでもこの塚に守られていることを知って、寒波の冷えこむきびしい日でしたが、集まった人々にとって心の裡に花が咲いた楽しい首途の日であったろうと思われてなりません。

このように毎年秋になると、本法寺に於いて無縁の人達のために、現在も法要が行われています。