お伽丸柳一の碑

お伽丸柳一の塚(本法寺境内)写真

お伽九柳一は、芸名を二つもっていたことでも知られています。
皿廻しの曲芸や記憶術を高座でやるときは一柳斎柳一と云い、一風変わった芸を身につけた芸人として、明治から大正の年代にかけて活躍した人でした。
お伽丸柳一は、本名を渡辺園太郎といって、父は伊東潮花(ちよう)という、寄席の昼間の主任(とり)をとる程の有名な人であったが、倅(せがれ)について堅気(かたぎ)の商売にさせようと、店に奉公にやっても、ものの三日ともたないで、追んでるか、追んだされるかで帰ってくる始末、このようにどこへ行っても勤まらないで、家でゴロゴしていると、お父っあんが、「俺やあなぁ寄席へいかなくちゃあいけねえからてめえは家にいろ。どこへ行っても辛抱できねえんだから。悪いことさえしなけりやあいい。警察のご厄介だけにはなるな。」と云って講釈場に行ってしまう。

●柳一はなかなかの物識りで、本を読むことが好きで、ひまなときに図書館に行って、自分の好む本を読んだりして雑学者らしい人間になった。その豊富な知識は、寄席の芸人としては驚くばかりでした。
そのことが寄席で記憶術という芸をやったことでもわかります。この記憶術は客席に降りて行って高座に背を向けて、鉢巻きで眼かくしをして、寄席の書記が客からもらった題を、たとえば一番太田道潅の本丸といった具合に三十番位までもらい、書記が一番から三十番まで「なん番、鮎の塩焼き」といった具合に読みあげる。
柳一はそれを頭に記憶していて、客が十番の題は、というとすらすらその題名をあてる不思議な記憶力の能力をもっていた。
この記憶力は柳一だけしかできない芸で巷の評判になった。或る時、銀行家の安田邸で園遊会があり大正天皇がまだ皇太子であったとき、この園遊会に出御したとき、一柳斎柳一もこの席で公演をたのまれ、記憶術を皇太子の前で披露しました。
その時の題に、第8番 太公望秀吉という題が出た。客が8番といったとき柳一は、清水に釣糸を垂れ 矢矧(やはぎ)の橋に眠る とすらすらと答えたが、司会者は題名がちがうのでそれをただすと、大正天皇がそれでよいと拍手を送ったとのことでした。一柳斎柳一があえて太公望秀吉といわなかったのは、中国の故事で、清水のほとりで釣りをしていて、見出だされた中国の呂尚宰相の故事を柳一が知っていて、題名に艶(つや)をもたせて答えたからである。大正天皇もその故事を知っていたからであろう。(柳一という芸人~林家彦六参考)このように柳一の知識はそれほどの教養をいつしか身につけていたのです。

●こうした豊富な知識をもっていたことから、巌谷小波(いわやさざなみ)先生のお伽噺会の会員にもなっており、この会で公演するときは、お伽九柳一の名で演じていました。このように小波先生をはじめ曽我廼家(そがのや)十郎、生物また、学者の南方熊楠(みなみかたくまつくす)先生とも交際があったことでも知られています。
昭和4年2月7日64歳で亡くなりましたが、昭和9年の春 巌谷小波先生が発起人になって、本法寺にお伽九柳一の碑が建立されました。
お伽九柳一の碑をみると、その中央にお伽九柳一の碑と筆太な達筆の字が書かれており、そのすぐとなりに小文字で関東大震災の時として…
-秋あっし 呑まんとすれば 毒の水-  という句が記されています。
この句意は、関東大震災のときに、当寺の付近でも上野の山へ避難民が命からがら集まってきましたが、東京の下町はことにひどく、このため水道の水は断水していましたが、こうした大震災のときは、災害の不安から、種々の流言蜚語が乱れ飛んでいました。生きるるため飲料水が無いと生きてけないこともあり、上野東照宮ちかくの井戸水を飲もうと避難民が井戸端にくると、この井戸には毒がはいってるから飲むな、ということが避難民に伝わり、折角生きるため水も飲めない有様でした。
おそらく、お伽九柳一も大震災のとき、この苦難を経験したと思われます。
それが17文字の句となって、この世相を詠ったのではなかろうか。当時の大震災に苦労した世相のきびしさが、この句にはにじみでています。一茶の俳句にちかい、なかなか大震災の世相をうがった句で、この碑を建立した発起人達も、この句をお伽九柳一の代表作としてこの碑に刻んだと思われます。

碑の裏側にこの碑の発起人達の名が記されていますが、この氏名をみると文化人や学者、当時有名な女優の名もその中に在り、お伽九柳一の交際のひろさがわかる気がします。発起人の碑には次の方々です
巌谷小波、石川木舟、服部感夫、花柳徳輔、高峰築風、高畠華宵、久保田金倦、栗島すみ子、野村元基(野村無名庵)久留島武彦、安倍季雄、天野雅彦、笹野豊美 以上十三名