寺院名 日蓮宗 長瀧山 本法寺
法人名 宗教法人 本法寺
包括宗教団体名 日蓮宗
所在地 東京都台東区寿町2丁目9番7号
設 立 1501年(天正19年)
代表者 代表役員・住職 西川隆庸
本法寺の沿革
天正19年 平賀本土寺の小西法緑の寺統・慶隆山、太田道潅築造の江戸城紅葉山に創建
正保年間 創建50年後、徳川幕府による江戸城再建のため、本寺を八丁堀に移転
明暦2年 江戸振袖火事で焼失、幕府より寺町再建のため高原平兵衛に贈与した拝領屋敷跡に移転
明治35年 26世日辰上人が山法を定める
明治37年 27世西川日春上人が本法寺の住職となる
大正12年 関東大震災で焼失し、29世日成上人の尽力により再建
昭和16年 戦時の時局に落語界が演題種目の自粛のため、はなし塚建立
昭和21年 昭和21年~昭和30年日蓮宗宗務総監として活躍する
昭和30年 31世日鑑上人が日中友好宗教者懇話会を提唱、日晟上人は理事長として中国に招聘
昭和63年 田中千代先生の書道愛好家の供養として建立
本法寺の創設と由来について
当寺は、平賀本土寺(千葉県松戸在 通称あぢさい寺)小西法縁の寺統です。山号を慶隆山と称し、天正19年(西暦1591年)太田道潅が築城した江戸城の西の丸がありました。紅葉山の丘陵に創建したのが発祥の地です。
当寺創建後50年を経た、正保年間(西暦1644年)に関東一円は、北条氏滅亡後、徳川家康の所領下となり、この江戸の地を徳川幕府の拠点としたことから、徳川家康は廃城となった江戸城を再建すると共に、内濠に沿って城下町〈臣下の上屋敷中屋敷等)をつくる構想があり、当寺は外濠にあたる町人達が住んでいた八丁堀に移転することになりました。
その後、明暦の大火(江戸の振袖火事 明暦2年(1652年))により、江戸の中心部にあたる町並は、壊滅的打撃をうけました。
徳川幕府は、明暦の大火後、江戸の再建にさいし、大屋根をもった寺院は、当時の町火消ではその消火に困難なこともあって、寺などは、浅草の拝領屋敷のあった土地に、浅草寺町をつくるため、当寺も拝領屋敷の土地に移転することになりました。この土地は、幕府が茶碗用達町人であった高原平兵衛に賜与した土地で、通称拝領屋敷と呼ばれていました。
浅草から上野にかけて、寺の境内が延々と町筋に建ち並び、この土地は、江戸の東北端にあたるところであり、江戸の東北地域を幕府の城塞として、要塞をかねて、徳川幕府がお寺で堅めたといわれています。
この町屋敷に来た頃は、寺も多く、金龍寺、松応寺、東陽寺、海運寺、大仙寺、本法寺が、この拝領屋敷の町のなかにありました。
その頃、本法寺が小西法縁の寺統の関係で、本土寺の住職であった日全上人が、隠遁(いんとん)して当寺に五年、この時に日全上人が、山号を長瀧山に改めたと云われています。
四世の住職日會上人、五世の日慶上人の代に、本堂、庫裏、書院を増改築し、諸堂、門塀を新たにつくり、荘厳な寺院に構築しました。
その頃の高原屋敷にあった、本法寺の建築の概要は、境内726坪、年貢地276坪を拝領し、間口七間、奥行七間一尺、建坪50坪の本堂を構築し、内陣、庫裏、書院は110坪と墓地がありました。
通称当寺を跡前(セキゼン)と呼ぶのは、浅草門跡(東本願寺浅草別院)の前に位置することから、その周辺を門跡と呼び、当寺も跡前(セキゼン)の名をもって当山の通称となりました。
その後、歴代の住職が本法寺を継承してきましたが、明治35年正月、26世日辰上人が当山の宗教の基本理念として山法を定め、その後、明治37年4月 27世西川日賰上人が当本法寺に住職となり、この山法を仏教の教えとして継承し、明治、大正にかけて山法を徹底して実行、本法寺の隆盛に寄与した上人です。
長瀧山本法寺の仏法の教えとして、住職はもとより一門の僧侶をはじめ、当山に奉仕するすべての人は、山法を守り、いやしくも檀信徒来客に接するにあたって、措辞(そじ)、粗暴(そぼう)な振舞いのないよう深く戒(いま)め、以後、本法寺一門の僧侶は勿論、檀信徒来客に接する者は、この山法の心構えを旨として、長瀧山本法寺を守護し今日に至っています。
本法寺の山法
一、法師たらんものは給事第一たるべし
一、法要葬儀等に臨みては当に輪王の気概あるべし
一、檀信徒来客に対しては懇切丁寧いやしくも粗暴の振舞あるべからず
明治三十五年正月
大正12年関東大震災では、東京下町一帯は灰燼(はいじん)に当寺も焼失したが、日晟上人は、その再建に尽力しました。一方、昭和21年9月第33代日蓮宗宗務総監となり、その後三権分立制にあらたまり、昭和30年9月第37代日蓮宗宗務総長として活躍し、同宗派の高僧として名は知られています。それに加えて、日中友好宗教者懇話会を提唱した人です。
その後継者として31世日蕊上人が本法寺の住職となり、日展上人の道志を継ぎ日中友好宗教者懇話会の結成に尽力し、その理事長を務め、中国に招贈されたさいには、各宗派の高僧を引き連れ、その団長として訪中しました。そのさい、作家でもあり寂聴庵主でもある瀬戸内晴美氏も同行し、翌年文芸春秋にその記事が載りました。
このように、日展上人、日謹上人が力を併せると共に諸檀家の協力もあって、今日の長瀧山本法寺の復興ならびに隆盛が完成したのであります。
[註] 平賀本土寺と小西法縁について
本法寺創建の由来の冒頭に、本法寺は平賀本土寺の小西法縁と書いてありますが、現在は各宗派別に各大学があり、江戸時代にはその大学に相当する学問所として、関東に日蓮宗の学問所〈これを檀林という)として三つの学問所がありました。それも日蓮聖人の縁りの地である千葉県にあり、平賀本土寺はそのひとつです。
そこに小西檀林があったところから、全国から入檀を志してくる者の、学寮と学室があり、ここで宗教の学問を卒えた者が小西法縁の僧侶といわれています。小西法縁の法脈に五つの母胎があり、本法寺はそのひとつであり、本法寺法脈の脈頭としての位置にあります。(新川日見編「小西法縁史」参考)
●謝意:「長瀧山本法史」の編纂に長谷川芳郎、坪井利剛、小森隆吉氏の協力に感謝いたします。